地獄編〜22  この男あわてる・表六・変人・奇人③

  大連・余話・・・大連初めての夕食。白いご飯の中に時々米粒ふたつが がっちりくっ付いてる。剥がそうとしても剥がれない。慌てた。何でだろう?帰宅後母に笑われた。押し麦を知らなかった。ヒョウロク面目躍如。

昭和20年8月15日(1945年)
 
 「チョーセン・カッタ ニッポン・マケタ」
 「チョーセン・カッタ ニッポン・マケタ」・・・。お昼の事だった。蝶やバッタを夢中で負う 都会育ちのヒョウロクの耳に飛び込んだ。
センジンのガキ共が囃したてる。慌てた。突如 朝鮮人様に変わった。まぁ 威張るわ いばるわ・・・本当に驚いた。これ人間の本性 特にドジンの特徴。劣等人の裏返し。その豹変ぶりは見事だった。やたら喧嘩を売って来る イチャモンつける 脅してカネを出せ・・・限がない。
 あの時親たちの反応がどんなだったか 表六に全く覚えが無い。
 ただ忽ちのうちに町の雰囲気が変わった。何から何まで 全てが逆さまになった。騒々しくなった。
 
 何日過ぎたか記憶なし。暑い晴れた学校のグラウンドに邦人約二千人。互いにどこの誰だかさっぱりわからない。チッキで後送した衣類その他生活必需品は我家に限って一切手元に届かなかった。全部行方不明 盗まれた。これにはさすがの母も困り果てていた。
 ヒョウロクは腹が減った。校庭の片隅に草を見つけた。抜いて見てニンジンと判った。15センチ位 泥をふき取ってそのまま食べた。美味かった。甘かった。その後今に至るも 「人参は生に限るぞよ」となった。「・・・北朝鮮では無い」。

  機能的には劇場のようなデザインで 大きな講堂の如き木造建築物の中に全員収容された。ギュウギュウ詰めだった。どんな基準・手順で人それぞれの居場所・寝場所が決められたか全く知らない。亭主の階級が上だとより良い場所を占拠してたのは間違いない。一瞬にして世の中変わった筈だが前例・慣習を踏襲していく。この状態が官僚制度の一つの姿であって今尚続いている。人一人が通れる幅の通路が数本 その通路の両側は各家族が横になって寝られるだけのスペースのみ。プライバシーもへったくれもない。成人男性は三十人は居なかった筈。母親の気が弱いと子供を含めて一家全滅がザラだった。
 薬品は大きな部屋に山ほどあったが 或る日突然官憲が入って全て没収された。老内科医師一名 歯科医三名 僧侶一名・・・前二者は殆ど無用の長物。僧侶のみ日ごと夜ごと大活躍。夜は静か。チーンー・チーンとカネの音が大きな講堂内に響く。夜にはノミやシラミが大攻勢。栄養失調がさらに進んで低蛋白血症で浮腫む。一見肥って見える。感染に対する抵抗力極度に低下。発疹チフス・ハシカ・ジフテリア・ 肺炎でバタバタ死んだ。初めの頃こそ子供達の泣き声がギャーギャー五月蠅かったが 躾けが良かったし 食料無きに等しく 泣く力も弱まり 小児数が激減・・・静かになっていった。
 日毎 棺桶が山と積まれて行く。
 自分が棺桶に入るなんて 内地上陸する迄一度も考えた事は無かった・・・不思議と言えばほんとに不思議。何故か?今も判らない。
 あの頃 「死者に対する不感症?」に成り始めた・・・?!。毎日 死者との対面だった。
死者の顔は みんなきれいだった。やさしく見えた。
その頃?
 何故か医者になろうかなぁ 将来・・・と勝手に「感じた」ようだ。「思った」・・・のではない。これも何故か?今も判らない。