地獄編〜21  この男新京育ち・ヒョウロク・変人・奇人②

 新京・新市街は近代的都市建設計画の先端をめざした筈のもの。ヒョウロクが向こう側の東本願寺へ渡るには 左右をキョロキョロ難儀だった。それ程道路幅が広かった。 整然として塵ひとつ落ちて無い。児玉公園にでっかい池があったが 遂に川・河・湖・滝を知らず ましてや海との遭遇には更に一年余を要した。
 幼稚園児の時 「ひとりで」アジア号に乗り大連の親戚を訪れた。一人ぼっちなのだ。これも亡き母の「謀略」に違いない。大連に向かって左側 果てしなく続く高粱畑の向こうにかすかに盛り上がって雲のように見えた・・・あれが「山」だったらしい。
 新京の冬は寒い。幼稚園のスケート・リンクで初めてスケートを習った。スケート靴を自力で履くのは幼稚園児のチビには無理だ。無論大人が履かせる。大人が指導する。ところが当日 零下38度C。あまりの冷たさに 素手で靴を脱がせることが出来ずコンクリート路をよろめき・転びながら自宅に帰り着いた。
 昭和二十年。
 夏ともなるとこれまた話が違う。
 あの日は無茶苦茶暑かった。
 新京駅にゾロゾロ日本人が集まる。知人を見かけない。ただ待つのみ。何があったのか 何が起こるのか さっぱり判らない。何時だったか全く記憶にない。列車に乗った。無蓋車だった。青空・ギュウギュウ詰め・人いきれ・早くも気絶者・・・。途中 戦闘機一機をを見たのみ。何処に向かって居るのかさえ不明。完全に情報遮断状態。
 どれ位時間が経ったか・・・列車が前に言ったり 後ろへ言ったり・・・。停まった。降りろっ!
地面に飛び降りた。貨車停車場。
 平壌駅だった(北朝鮮)・・・!!!。この後 平壌市内の同胞民間人の家庭に強制・分散・生活することとなった。
 表六はヒョウロクだった。なんてたって学校が無い!あの窮屈極まりない学校が無い・・・嬉しかった 本当に嬉しかった!!。