地獄編〜25  この男歩く・ひょうろく・変人・奇人⑥

 平壌脱出・南朝鮮へ向かう。日にちは記憶にない。秋。時刻は午前十時ごろ?ぞろぞろ歩き出した。二列縦隊。1500人弱くらい?一部病人は牛車で運んだ。 大人も子供も(六歳男子・姓はヤマザキ?一人のみ記憶してる)各々一定量の白米を持った。このコメは平壌・日本人会の協力で得たもの 且つ帰国後返済する約束だった筈だが 大人の世界の話で小僧・表六の出る幕はなく詳細は全く知らないし 結果も不詳。調べた事も無い。
 いずれにしても「平壌」には食糧が無い。カネも無い。座して死を待つ・・・まさに是だった。誰一人として「健康」である筈も無かった。父も衰弱して 病人用として使用していた舞台下の部屋(着替え室?)で寝込んでいた。この部屋から生きて出た人を知らない。母はなんてったって豪気。弱気の父に凄まじい喝をいれ たたき起こして歩かせた。ヨタヨタだったがなんとかついて来た。ヒョウロクはこの時の父の姿を忘れない。男は強そうでいて実は弱い!母親はいつもいつも強かった!!この大講堂の周囲は何故か高いレンガの塀で囲まれ 成人女性が外に出ることは無かった筈。空腹で運動どころじゃないし・・・。ヒョウロクはガキ。正門と真反対の位置にある便所の横の穴から しばしば外へ這い出した。父のスイス製の腕時計を持ちだし 朝鮮人の大人との取引きで危うく騙されかけた経験もある。
 「脱出」である以上おおっぴらに表街道の「行進」は出来ない。
道案内人は山道を行く。狭い農道・裏街道を歩き 朝鮮特有?の赤土・急流の川をロープづたいに横切る。滑って転んだら一巻の終り。助っ人は居ない。
 勿論夜ごと野宿。病人は可能な限り橋の下。兎に角ラッキーだったのは雨に遭わなかった事。川辺で少し大きめの石を集めて釜戸?を作り 長方形のアルミ製の弁当箱にコメを並べ川の水を入れてご飯を炊く。おかずは常にコチュジャン・・・朝鮮ミソと言っていた。玉砂利の上に大の字になって見上げた星空を今も忘れない。すぐ背中が痛くなり 疲れはて まるくなって寝た。・・・ほんとに忘れられない。
 それと不思議なのは 大便をどう処理してたか?全く思いだせない。
もうひとつ 今考えてみると女性の生理(月経)の処理は?・・・。大便後の紙・新聞紙ならいい方・・・ちり紙を見た記憶が無い。「戦争無月経」になってた???・・・かも。
 途中 道端に朝鮮のオモニがいて 梨や蒸した薩摩イモを売っていた。表六も シラミだらけの下着を一枚脱ぎ サツマイモと物々交換した。これは信じられないほど美味しかった。今も薩摩芋ファンの一因?
 みんな皆 腹ペコペコ・・・しかし 誰も盗みは絶対にしなかった。
映画「十戒」を観る度に この北朝鮮道中の或る一場面と必ずダブッて見えるものがある。こればかりはどうしても説明しきれない。
 なんとも遣る瀬無かったこと・・・
道中 盛んに追いはぎが出る。大抵ロスケを一人雇ってる。例の自動小銃をぶっ放す。止まれっ!!持ってるものは命だけ。つい先ほど3センチの鉛筆まで取られたばかり。何も無いと判ると 責任者っ!出て来いっ!リーダー10人位ボコスコに殴られ 蹴飛ばされても一切抵抗出来ない。あんな連中叩きのめすのは いとも簡単なことだが 後続の同胞難民のことを思えばひたすら「忍」の一字しか無かった。これはほんとに辛く悔しかった。
 八日目くらい?午前四時ごろ?「開城(現在は北朝鮮)」に辿り着いた。南鮮だっ!!この声と同時に母が倒れた。失神した。
米軍の保護下に入った。DDTを滅茶苦茶ぶっかけられ 目を開けて居れなかった。
 シラミとは 急なお別れとあいなった。