地獄編〜48  この男奇人・法医学・・・下山事件・警察・創価学会(27)

 法医学教授・・・昭和24年(1949)の下山事件を例示。法医学的鑑定の講義は圧巻だった。「事実」は一つのみ。にも拘らず「自殺説」と「他殺説」。奇人は後者とみる。いかなる調査・研究・鑑定も入口を間違えると出口を見失う。今 癌研究レースも入口が多すぎて「間」の取り方が狂い 出口がなかなか見えて来ない・・・?。
 婆様がネコイラズ服毒自殺。暗闇の中に吐物がボーッと青白く光って見えた・・・燐。中年男。米国系の大会社社員寮で首つり自殺。トラック二台分の蔵書を大学図書館に寄付した今 「臨床のための法医学」(朝倉書店)一冊のみ手元にある。
 救急患者の中には「他殺」だとピンと来て警察を呼んだケースが数件。本来なら「司法解剖してほしい」「正確な死因を知りたい」と思っても 警察は「臨床医の死亡診断書」が即出る事を密かに期待してると思われたケースもかなりあった。複雑で面倒な仕事は出来るだけ抱え込みたくないわけである。
 大学病院では 死因究明の為に患者さんが死亡されると 病理解剖させていただくようお願いするのを原則としていた。ただし創価学会信者は枕頭台に小さな仏壇如きものを置き 病理解剖をさせてくれることは皆無だった。病理解剖しても「死因不詳」となる症例も多々あった。医学の不確実性・未熟さ・「医学の限界」を数限りなく体験した。
 喩えて言えば・・・
 三万点のパーツがあれば自動車一台出来ると仮定する。同様に或る一定数のパーツを準備出来れば 新たに「人間を一人創る事が出来る」時になって初めて 正確に故障部位・疾患を知ることができ 修繕・治療が出来る筈。ここに至って初めて「まともな医者」が生まれる筈。
 逆に言えば現状を見ると 医者は極言すればウソツキと言う事になる。ありふれた病気でも「病因不明」が山ほどあって「疾患の本態が完全には解っていない」・・・にも拘らず 如何にも判ってるかのように医者は振る舞わざるを得ない。診察して「だいたいこんな病気の類だろう。ならば経験・体験から治療はこうすればうまく行く筈だ」。それで幸い?にして概ねうまく行く。それが一般「臨床医」の真の姿である。大学病院では必死であれやこれや検査法を駆使して証拠固めをし 診断名をより正確にする。
 故・オキナカ・重雄東京大学教授はその最終講義「内科臨床と剖検による批判」(1963)で 彼の「誤診率」を発表した。その意義の是非より ここでは「医者は間違える」事がある・・・この点が重要だ。
 奇人は 目の前の患者 製薬会社の関係者等誰彼かまわず なんのてらいも無く 敢えて本音を吐き続けて来た。
 念を押しておく。「臨床医」を頭から信じ込む事自体が不自然・不合理なのである。
 「臨床医」は科学者でもなければ学者でもない。確かに一般人より広く・深い医学知識はある。それを手立てに 体験・経験に拠って立つ医療行為が出来る「職人」に過ぎない。
 大工に巧拙があるごとく 臨床医に「名医」と「ヤブ医」が存する所以である。