地獄編〜44  この男医学部専門課程・ガンコ・変人・奇人(23)

 息子が医学進学課程。途端に職場で父が羨望の的。再婚話が降って湧いてきた。半年後?。何を血迷ったか父は知性・品性下劣・下働き女中と再婚した。当然ガンコ・変人は亡母と比較する。会話が成立しない。狭い・小さい公営住宅で毎日顔を合わせる生活。何とも言えぬやるせなさ・・・。
 亡母に強く戒められた「急性大激怒発作」が起こる。意思疎通不能。家庭内不穏。遂には声を聞いただけで嫌悪感に悩む。
大学入学後 食事(しばしばこれもカット)を除く生活の為の諸経費を 家庭教師による収入に全面的に依存した最大の原因・理由がここにあった。
マドンナには伝えなかった。
医学部専門課程で最初にビックリしたのは医学専門書が異常に高価だったこと。この大学の図書館が極めて貧弱・不備だったこと。
 基礎医学教育の第一関門・系統解剖学実習スタート。解剖実習用の台の上に遺体。これがズラッと並ぶ。ここで躓く学生が時々居る。退学する。遺体(以下ライヒェと呼ぶ。die Leiche・死体・ドイツ語)は脳を取り除かれて丸ごとホルマリン漬け。解剖実習室に慣れるまでは目がチカチカして強烈な異臭に苦しむ。凄まじいホルマリンの悪臭。部外者侵入禁止。窓は閉め切り。敗戦後十年の貧乏大学 換気もままならず。四人一組に一遺体。一年かけて頭の先から足の先までメスと素手で解剖をスケジュール通り進める。メスは直ぐに切れなくなる。研ぐ。これの繰り返し。手指・手掌に独特の異臭が浸みつき皮膚はがさつく。洗っても洗っても臭いは落ちない。爪は黄色く硬くなりこれも臭い。
 驚いたのは 骨格系・筋系・内臓学・脈管系・神経系・感覚器の各部・各所の小さな末端まで一つ一つ名称がついて居る。通常は必ずラテン語・日本語が併記され これを全て覚えなければならない。例えば骨の小さな孔ひとつひとつ 細い血管・神経の一つ一つにまで名前が付いている。その量たるや尋常な数では無い。ラテン語を覚えると急に英語の語彙は増える。これを正確に覚えなければ将来医学論文を読んでもチンプンカンプンの事態に陥りかねない。これら術語は医学の基礎中の基礎。何としてもマスターしなければならぬ。心身共に疲労困憊の重労働だった。
 これぞ大学教授と敬服した解剖学教授が「一年後には諸君の頭の中 解剖のことなんて空っぽになってる」・・・と名言を吐かれた。
さもありなん!!。それをガンコ・変人は極度に怖れた。
 この人体解剖・体験は ガンコ・変人の人生観を百八十度ひっくり返した。
 「人間どいつもこいつも一皮剥けば皆同じ」「こんな物だ」・・・何とも言えぬ虚しさ・虚無感。ショックだった。
街を歩く。他人の下肢を見る。途端に 下肢の筋肉の名称と収縮・弛緩がこうなって ああなると頭をよぎる。笑えば顔面筋肉の動き方が透けて見えてしまう。
遂には我が心のマドンナもこんなもの?・・・?・・・。更には内心彼女を高嶺の花と思い込む。以後一年間文通が途絶えてしまった。
 無論この間 やはりマドンナはマドンナ!!しばしばマドンナが眼前に浮かんだり消えたり・・・。
 春休みに入り 北国のリンゴ村で医院の診療助手をやってくれと先輩に頼まれた。全く偶然の事だった。引き受けた。四十日間凄まじく忙しいとは聞いていた。
毎日毎日 早朝も深夜もお構いなく診療の手助けに明け暮れた。生きてる人間・患者と絶え間なく接触。環境の激変が原因か?帰宅直前になって突然発作的に手紙を書いた マドンナ宛てに。
「すでに結婚してるかも知れない」・・・邪魔になるかもしれない。不安なまま投函した。