地獄編〜62  この男奇人・無能教授の首切れず。内科教授を採点する②(39)

「人は体験しないと本当のことは解らない」・・・地震にあったら?火事にあったら?難民になったら?人種差別にあったら?上司がバカだったら?
六  「教授回診なんて要らない。皆さんお元気ですか?と病棟内に放送すればよい」。まさに至言。大学病院泌尿器科入院中の文科系大学者の皮肉。教授回診なんて屁の役にも立たない。権威者ぶった顔見世興行の域を出ない。医者が大勢ゾロゾロついて回ってくる。埃が立つだけ。質問は出来ない。診てくれるわけでもない。
この内科も同じ。患者の胸の上に聴診器を「置く」だけ。偉そうに通り過ぎて行く。教授が病室を出た瞬間 その個室の患者がギュっと言って急死した。皆ビックリ仰天。教授は知らん顔。さっさと隣の病室へ。嘘ではない。実話だ。これが東大出身内科教授なのだ。こんな男を信頼できるか?。家族への言い訳に担当医は四苦八苦。
七  奇人の受け持ち患者。再生不良性貧血。決定的治療法がない。文献を読み漁り良かれと思った治療法を ベッドサイドで患者に説明し次々試みた。患者の温度板には処方内容が書かれている。その処方を見て教授いわく「何だこれは?」。奇人すかさず臨床雑誌「内科」の症例報告を提示。次の瞬間言いも言ったり「なんだ関西の奴の論文じゃないかっ!」。これぞ東大卒の傲慢。この著者間もなく 県立がんセンター長・血液の専門家。
医局で症例検討会。右上眼瞼が突如麻痺。痛くも痒くもなく上眼瞼が垂れ下がった。動かない。こんな時は眼球の奥に動脈瘤etcがある。Textbook of Neurologyをその場で提示した。脳外科併診。15分で終わってしまった。一週間後の症例カンファランス。奇人にいきなり教授いわく「動脈瘤と上眼瞼麻痺との関係を説明しなさい」。ふざけるんじゃないっ!奇人 解剖学は得意。口を真一文字に結んで一切開かず。完全無視した。
八  この教授 英語の論文なら端から信じこむ。日本の学者?は殆んど単なる外国文献紹介屋。最初に紹介した奴 日本ではその道の第一人者?!。中にはドイツ語論文を適当に修飾して日本語に書き換え原著のふりした輩もいる。臨床講義はセシルの内科教科書内容の羅列。迫力無し。退屈至極。アメリカで何をやってきたのか英語がまるで駄目。N.B.=nota bene=note well=注意せよ・すら知らない。三省堂のコンサイス英和辞典にだって書かれてる。ドイツ人医師は使わないが 昔日本の医者はしばしばカルテにn.b.とかN.B.と書いていた。nicht besonders(特別な事はない位の意)の略。奇人敢えて混乱を起こしてやった。カルテに日本語と英語を混ぜて書いた日と 日本語とドイツ語を混ぜて書いた日では 同じNBでもまるで意味が違ってしまう。奇人はこの手を使って日々の診療内容をカルテに記録した。教授はまんまと引っ掛かった。カルテを読んでも訳が解らん。奇人せめてもの抵抗だった。「公務員法」が邪魔になって教授の首を切れない。裁判の場面でも 奇人はしばしばドイツ語を混ぜて裁判官をからかった。一人として聞きただしてきた者はいない。知ったかふりして誤魔化す連中ばかりだった。一事が万事。裁判官なんてその程度の者なのだ。メンツばかり重んじる。弁護士も同じだった。

地獄編〜61  この男奇人・これでも内科教授?教授を採点する(5段階法)(38)

今回から暫くの間1960年代の実話。前後様々 徒然なるままに書き残す。
新任内科教授の実態について奇人流の採点をする。1から5まで5段階で採点。5点を最高とする。
一  マドンナと奇人。教授宅を訪問。家の中雑然。破れ障子に子供が五月蠅い。推して知るべし生まれと育ち。・・・家庭人として2点。
二  この教授・内科医なのに聴診器は象牙のベル式(オニズカ式)だけ。大昔のまんま。当時インターンでもリットマン型を使用(Littmann)。心音・呼吸音の聴取には膜面とベル型をうまく使い分けるのが当り前。象牙を患者の胸に当てるだけの教授。恰好だけで聴いてはいない。・・・臨床の最初歩のひとつ1点。
三  聴診技術を指導できる先輩無し。アメリカ帰りにも教えを乞うたがまるで無能。何用あって彼を有給助手にしたのか?英語も冴えない無用の長物。・・・人事管理1点。
奇人は考えた。何事も最初が大事。嘘を身につけたら万事休す。心音・呼吸音など教材用のレコードやカセットテープを購入。夜間静かな状態で聴き解説で学んだ。聴診の世界は一種芸術的と奇人は信ずる。
四  人は無知であるのが当り前。知らないことは知らない。解らないことは解らない。こんな解りきったことがこの教授には解らない。メンツが許さない。潔くない。威張るだけ。訳もなく患者を怒鳴りつける。教室員が異を唱えるとフグの如く膨れて食ってかかってくる。品格ある大人とは全く無縁。初代内科時代の優れた臨床医を使いこなせず彼らを追い出した。暴君教授回診に付き添った病棟婦長も後年 精神障害を来たした。遂には医局旅行の夜「これでも東大では人格者のほうだ」とぬかしおった。あきれ果てた。助教授と奇人夜遅くまで研究室。「あの二人何の陰謀企んでるんだ」。ふたりビックリ仰天。開いた口が塞がらない。開業医からの紹介患者を診て返書。ハガキに一言「OB」のみ。非礼此処に極まれり。この開業医他大学出身者。超真面目。烈火のごとく怒り「ふざけやがって!バカ野郎!二度と紹介しないっ!」。開業医が新任教授の臨床実力を試したのだ。バカ・トンマ・マヌケ教授。奇人の10年後輩が早々と「内科専門医」の資格獲得。俊英だ。教授は嫉妬の塊。最後まで彼を重用しなかった。目の上のタンコブ若い秀才を恐れた。見殺しにした。・・・指導者としてほぼ零点に近い1点。
五  自分は非力と悟れば「皆が切磋琢磨・問い正しあって全能力を結集しよう」そして「患者の為に最善を尽くそう」「他科とも協力し合って大学全体を盛り上げて行こう」・・・と何故考え覚悟でき出来なかったのか?
才識ある者はさっさと去り 屑ばかりが医局に残った。
余りにも勉強不足・医学の基礎知識が無さ過ぎた。診療技術も劣悪過ぎた。優れた臨床医が育つ訳がない。.

地獄編〜60  この男奇人・「人の世は偽善者の為にある」「権謀術数世界」(37)

「ひとは実際に体験しないと本当のことは解らない」・・・人の苦痛・痛みなんて全く解らない。否 人の痛みなんて考えたことすらない。むしろ人が痛み苦しむ事に快感さえ覚える。自分が儲かりさえすればよい。自分の利益になりさえすればよい。「人の世は偽善者のためにある」。偽善の塊ならば生き易い。偽善者でないと生き難い。平気で嘘をつく。いつも人をだます。陥れる。その為にはあらゆる陰謀を企む。他人なんてどうでもいい。自分さえ良ければよい。自分のことしか考えない。否 自分のことしか考える事が出来ない。嫉妬に狂い常に自己中心に考える。利己的に徹する。他人の不幸に欣喜雀躍する。他人にとって不都合なことばかり仕出かす。いつも自分にとって有利な事しかやらない。
 この傾向は白人の社会 特にアメリカで顕著。今も人種差別主義者が堂々のさばる。典型例がルーズベルトトルーマン。今なおその伝統が脈々と続いてる。自分にとって有利なように勝手気ままのやりたい放題。権謀術数社会・世界。
 人は皆てんでんばらばら。連帯感が無い。無規範。アノミーanomie状態。
 人の世が益々残酷「地獄」に成りつつある。善良な人々はいつも騙される。生きにくい。
とんでもない時代になってしまった。もはや矯正不可能の時代と相成った。

地獄編59  この男奇人・マドンナと結婚。火事との遭遇。(36)

 春 医師国家試験・ECFMG試験・無事終了。侍たちの気迫に負け?内科入局。四ヶ月後には侍たち全員 ヘナチョコ教授と大喧嘩の末辞めてしまった。内科教室の実戦力急低下。市中・病院の婦人科医・細菌学者らが有給助手席を占拠した。アメリカ帰りも一人。全員謂わば流れ者。唯々諾々。無気力。アノミー状態。
 八月末マドンナと結婚。家が学習塾。日曜は終日生徒でいっぱい。受験生もいて急には塾閉鎖不能。やむなくマドンナも同居。
56日後午後二時ごろ火事・全焼。出社中のマドンナ 回診中だった奇人二人仰天。マドンナの嫁入り道具・衣装など 奇人の学生時代のノート・参考書類一切が消失。風呂釜の火の不始末。謝罪一切なし。
マドンナ急遽農家の廃屋に転居決定。ヤヤコシイ人間関係 家庭教師ともオサラバ。スッキリ・サッパリ何にもナッシングの二人・再出発。マドンナ一切不服言わず。奇人密かに感謝するのみ。
実はマドンナ。台湾・台北市生まれ。台北帝国大学の隣に住んだ典型的なお嬢さん育ち。父は敗戦の年二月脳出血で他界。戦後引揚者。内地での生活困窮を体験済み。
七十五歳を過ぎて今も思う。「マドンナも奇人も なにものかに 常に護られている」。それは亡き父であり母である。ふたりの常。いつも思い出しては心で祈る。墓参・読経不要。奇人神を信ぜず。
敗戦後の生活困窮・家なき時代。就職難時代。大学受験時代。渡米すべきか否か時代。病院開業経営時代。病気入院した時・・・まさに綱渡り人生のありとあらゆる時に「・・・護られた」。
その象徴的出来事・・・
新婚56日後 火事に遭遇したその日 午前会社でマドンナ・・・
「結婚したら火災保険には早く入っておくべき・・・」。全くの偶然。同僚男性の一言に胸騒ぎ。昼休みに保険会社へ走り火災保険の契約を結んだ・・・。
護られた。救われた。

地獄編〜58  この男奇人覚醒成功・糖尿病昏睡。理不尽・無給医(35)

 医学部の「医局」は主任教授が変わると激変する。この医局とは何ぞや?一言でいえば「タコ部屋」。昔は教授が絶対権力を持っていた。今は知らない。法的根拠のない悪習・ヤクザ・マフィア的人間集団。有給者は教授・助教授・講師・助手。大学・診療科目によっても違うが十人前後まで・・・。他は全員タダ働き・無給。無給だから出鱈目・無責任てな訳にはいかぬ。エライ人達(先輩)に徹底的に扱き使われ 何だかんだと難題を突き付けられる。こんな不可思議な伝統?悪習があり 之に依存して「医人・医者」を養成。奇人も満十年間無給。その間何らかアルバイトで食いつないだ。芸者の置き屋より悪質な医局。只働きで一所懸命診てる医者に 病人が文句を言うなど言語道断。無給医の立場からは極めて当り前の論理。医者に非常識人が多くなった一因とも言える。
 医学教育・医師養成における底知れぬ大矛盾の数々。二階俊博議員いわく「医者は好きでなってるんだから・・・」「医者のモラル低下・・・」。嫉妬に狂った心貧しき愚者が ついつい本音を漏らした。無知蒙昧・下劣な政治家の本態。
 ベテラン医局員皆無。戦力最低。慌てた新任ヘッポコ内科教授「ダイガクに行って助教授を連れてきたい」。医学部長答えていわく「ここもダイガクだけど・・・」。「いえ 東大で・・・」。結果いわく「いざとなると東大も人材不足だった・・・」。依頼者本人に問題があり過ぎたのが実情。なんとか東大から一人 助教授として譲ってもらい 奇人は彼の下で糖尿病・専門家を目指す。特殊な感染症とは間接的な関係となった。当時病院には中央検査室がなく 正確な血糖測定は我々二人の研究室でしかできなかった(ハーゲドロン・イェンセン法。一検体測定に50分は要した)。少なくとも週に二回は研究室で動物実験 帰宅は夜10時半から11時ごろ。他は隔日に救急病院夜間宿直・月に二回は土曜・日曜の連続宿直・・・こんな日々がズーッと続いた。
 1964年その日助教授は親戚の結婚式でお休み。夕方四時過ぎ無知マヌケ教授が「糖尿病昏睡」患者入院応需。教授・医局員・奇人皆そんな患者診たことない。患者が来ても皆知らん顔。詳細は省略する。一時間ごと採血・血糖測定。合間をぬって尿糖測定。患者診察。三十分毎デキストロスティックスで血糖値簡易測定。正規・インスリン投与量を決める。ところがここで大問題が起こってることに奇人気付かなかった。一度に100単位の正規インスリンの処方。薬局の無知なベテランが 看護婦にこんな大量のインスリン使用は危険。治療に加担するなと密かに警告。奇人ただひとり治療にてんてこ舞い。走り回った。看護婦が手伝ってくれない。薬局にインスリンその他 取りには行ってくれた。
 約九時間後午前二時十分ごろ覚醒した。19歳男。肺炎で食欲ない飢餓脱水状態。「日頃糖尿病で食事制限中。食欲なくて丁度よし」これ患者の考え。これがアダとなった。
 この症例は この大学病院で糖尿病昏睡から無事帰還した第一例目。因みに1915年から1958年迄 日本国内の本症報告例数は計107例に過ぎなかった。
 僅かな検査数値と奇人の「勘」が治療の全てだった。「科学的」ではなかった!?・・・?。でも結果は良かった。

地獄編〜57  この男奇人呆れた。劣悪人格・暴君・内科教授(34)

 「内科診断学」という教科書は昔からある。しかし「診断学」なる本はない。ここに言う「診断」とはいかなる概念なのか?後日にまわして先に進む。
 「自分は美人である」と信じてた。ところがいつの間にか そこいらの婆さんかそれ以下になっていた。女優は総じて皆そうだ。専門家の運命なんてそんなもの。つまり役立たず。捨てられる運命にある。
 二代目新任内科教授も東大出身。専門は感染症。その中でも極めて特殊な分野・・・つまりセシルの内科教科書・全約2300ページ中 感染症が約330ページ。その中の10%弱を占めるだけの稀にしか見られぬ疾患群だけを専門とする。東大出身内科医としては主流の臨床医でも研究者でもなく 悪く言えば亜流・ハグレ者。この男が事もあろうに「一般内科」の主任教授になった。後日 皮膚科教授が「あの男を選任した教授会の大失敗だった」と述べたのを奇人は今も忘れない。
 初代教授がドイツ語で論文を書けに徹し 教室員は学位取得に悲観的だった。一方臨床面は充実し特にレントゲン写真読影は優れていた。ところが新任教授は胸部エックス線写真読影のABCも知らない。横柄・傲慢。患者・看護婦構わず直ぐ罵倒怒鳴る。その男が同じ東大の先輩教授の前ではバッタのごとくペコペコ頭を下げる。その見苦しさ・情けない!。奇人は当時 分裂気質の異常人格者と断じていた。教授回診に付き合った温厚な病棟婦長が後年 精神異常を来たしたのは知る人ぞ知る。極端な病的人格者故 残党の侍たちとは悉く対立し 教室内は険悪な空気に包まれた。例えば・・・
外来で教授初診・「教授得意の?と言う疾患」即一般病棟入院。対する侍・病棟医・胸の写真を見るなり「これは結核だっ」。しかしこんな劣等教授に教えたって無駄!。わざと喀痰の結核菌培養をし教授回診時に陽性だと突き付ける。慌てた教授が「結核病棟へ移してください」と言うのをせせら笑った。この間結核菌が病室中にばら撒かれてた!。これが何回か続いた。今度は胸の写真に影を見つけると即結核病棟へ入院。対する侍「こりゃぁ結核じゃない」。知らん顔して胸腔穿刺・採れた液体を病理組織検査へ出す。答えは肺癌。次の教授回診まで知らん顔。教授ビックリ患者は一般病棟へ。そのうち肺には結核があること。かつ癌より多いことをやっと覚えた。
 侍たちと教授間に嫌がらせと喧嘩が絶えず 医者として既に一人前の侍・有給助手たちは 教授就任一年四カ月目には全員喧嘩して辞めてしまった。この有給助手・空席を狙って奇人より三〜四年上の「流れ者」たちが入局してきた。この連中には確固とした内科臨床の基礎が出来てない。これは教授にとって物怪の幸い。恥をかく心配がなくなった。後は肩書を盾に一方的にやりたい放題 「暴君」ぶりを発揮し始めた。
事初めに外来で撮影された胸部エックス線写真を 全部教授がエンピツでチェックし始めた。ちょっと影らしきものを見つけると片っ端から結核・公費治療申請せよと命令。医局長は自分の氏名で申請するのが恥ずかしく「教授名」の印鑑を押して書類作成・提出。悉く「治療の要なし」と戻って来たのを今でも思い出す。

 地獄編〜56  この男奇人・権威ある総合臨床医を創れ。(34)

心臓外科医・故・榊原仟教授のエッセイ。「・・・もし自分の妻が病気になったら 内科・外科・産婦人科に精通してる医者に診てもらいたい」。けだし至言である。これこそ人々が求める「臨床医たる者」の真の姿であり資格である。教授の専門は内科的心疾患ではない。数ある心臓病の中にあっても メスで治せるものに限られる。専門家の守備範囲がいかに狭いかよく判る。今や最低この三科に「心の病」を知らないと「病人を全人的に診る事」は不可能である。
それにもかかわらず 更にさらに「専門分化」しつつある現状は近い未来に とんでもない大きなツケが回ってくること間違いない。
 例えば今 診療所の標榜科目に「外科・内科・皮膚科」とあれば本当は外科。「婦人科・内科」とあれば元々は婦人科。いずれも「内科一般」を基礎から学んでる事は稀有で 高血圧・糖尿病・気管支喘息・肝炎・心筋梗塞なんてありふれた病気に関する基本的知識さえあやふやな医者が少なくない。だからしばしば町医者は藪医者だと頭から決めつけられてしまう。「一般内科」(総合診療・臨床科)の守備範囲は極端に広く 対して外科側は対象疾患が少ない。だから外科医あるいは婦人科医が開業に際して突如「内科」も診ようたってそんなに簡単な事ではない。内科医の訓練を受けたことが無いからである。精神科の内容変遷は激しく その守備範囲・奥行きの深さが 今の奇人には解らない。例えば「脅迫観念」と言う言葉ひとつを取り上げても その使い方が医師によって必ずしも一致していない。奇人には言葉を玩んでるが如くに感ずる時さえあり スッキリとは理解できない。
 1945年敗戦後 開業・臨床医は一般に実力不足だった事は否定出来ない。しかしそれなりに努力して その守備力を上げて来た。それによって「医師不足?」を表面上補ってきた。たとえ藪医者ばかりが増えて来たと非難されされようとも・・・。
 ところが今や 医師たちは「専門医へ逃げ込む」形で可能な限り患者を診たくない 面倒な訴訟問題を抱え込みたくない 責任逃れに徹する ひたすら自己防衛に走る。医師たちも「アノミーanomie」状態 つまり無規範・無連帯・バラバラ状態。自分勝手・自分さえ良ければ良い状態に追い詰められている。
 自分は痔が専門だ。目の前に胸が痛くて苦しむ患者。他に看護婦しかいない。どうする?医師免許証(全科)は持ってる。ここで「うっかり?好意的!に何か行動を起こした」結果「あのバカっ! 余計なことしやがって・・・だから死んじまった」なんて言われたら この「痔医者」は助からない。ボロクソにやられる。手を出さないに限る。君子危うきに近寄らずなのだ。逃げるが勝ちなのだ。
 換言すれば 榊原教授が希望した方向と真反対に医療界は動いている。訳の分らぬ専門医ばかりが跋扈し 優れた「総合診療・臨床医」は育たず むしろ軽視され駆逐されんばかりである。この傾向が大学病院で顕著なのは致命的とも言える。
 俊英こそが率先権威ある「総合臨床医」となり 専門医をその配下に置く。しかるべく医学教育法を創造する。急がば回れである。考え方を変えれば直ぐ出来る。